(3)戦後の金融機関再建整備22

戦時経済下において、政府は、企業への命令や契約等に基づいて、民間部門との間に巨大な債権債務関係を形成していたが、1945年8月15日の太平洋戦争の敗戦により、この関係は「戦時補償債務」として、政府の民間部門に対する賠償義務に転化した。一方、前述のように、日本興業銀行や大手銀行を中心とする金融機関は、戦時金融統制の下で、軍需金融に傾斜していた結果、戦時債権債務を蓄積していた23。また、家計部門は、事実上の強制預金等のかたちで、資金の出し手の立場にあったため、金融機関に対して、全体として莫大な預金債権を有していた。

当時の占領行政担当機関である連合国最高司令官総司令部(GHQ/SCAP、以下SCAP)は、1946年春頃から、戦時利得を排除するために、戦時補償を打ち切る方針に傾いた。戦時補償の打切りは、旧軍需会社等に決定的な打撃を与え、軍需融資に傾斜していた大手銀行等に多額の不良債権を発生させ、経営破綻に陥らせることが必至であったため、大蔵省や金融界は、これに強く反対した。しかし、政府はSCAPの意向を受け入れざるを得ず、1946年8月8日、戦時補償の打切りを決定した。この結果、政府・民間部門間の戦時補償問題は、主に民間部門内部における戦時関連債権債務処理の問題に変質した。それが、金融機関・企業の再建整備という大事業である。

1946年8月15日に、金融機関経理応急措置法と、会社経理応急措置法が公布・施行された。これらにより、すべての金融機関(日本銀行を除く)と、指定を受けた企業(特別経理会社)が、新旧勘定の分離を命じられた。金融機関の資産・負債については、①戦時補償打切りの影響を受けない現金、国債・地方債、金融機関に対する債権などの健全な資産と、これに見合う少額預金(1世帯・法人当たり15,000円以下)等の預金や、公租公課、金融機関に対する債務などの負債が新勘定に、②企業等への貸出金、国債・地方債以外の有価証券、株主勘定などの資産と、大口預金、軍需融資積立金、株主勘定などの負債が旧勘定に、それぞれ所属させられた。新勘定は、金融機関の再建のための営業活動の基礎となる勘定である一方、旧勘定は、戦時補償打切りに伴う整理の対象となる勘定であり、原則として、債務の弁済や資産の処分などの移動を禁じられた。この新旧勘定分離に際して、少額預金者保護の観点が勘案されたことが注目される。

1946年10月19日に、戦時補償特別措置法、金融機関再建整備法、企業再建整備法が公布され、同月30日に施行された。このうち金融機関再建整備法は、金融機関再建整備手続という特別な政策措置の根幹を定めたものである。同手続の方法は、旧勘定の最終処理と、再建整備計画書の作成・実施との2段階に分かれている。第1段階は、①新旧勘定の分離、②旧勘定の資産・負債の評価替えと損失の確定、③旧勘定負債項目等による一定基準に基づく損失の負担・整理、④新旧勘定の合併(最終処理)という順序で進み、それに続き、第2段階は、⑤旧勘定の最終処理後の再建整備計画の作成と大蔵大臣の認可、⑥再建整備計画の実施、というかたちで行われることになっていた。

上記③の損失を負担する項目の順序は、金融機関再建整備法で定められた。法定順序は、①旧勘定の確定益(再評価益)の全額およびその他の利益、②旧勘定に所属する積立金の全額、③資本金の90%まで、④整理債務(負債)のうち、1口500万円超の法人預金等の70%まで、⑤1口100万円超〜500万円の法人預金等の50%まで、⑥1口10万円超〜100万円の法人預金等の30%まで、⑦法人預金等の残額とその他の整理債務(個人預金等)の70%まで、⑧資本金の残額、⑨整理債務の残額、⑩指定債務(国に対する公租公課等、大蔵大臣が指定する債務)の全額、という原則になっていた。また、以上によってもなお損失が残るときは、政府が国債の交付により補償することになっており、その限度は当初100億円に定められていたが、後に増額された。つまり、損失は、金融機関(利益、内部留保)、株主(法人・個人)、預金者(法人→個人の順で、かつ金額につき累進的)、政府(→納税者)の順序で負担することとされていたのである。

金融機関再建整備は、後の会社更生法などと同様、再建型の法的倒産手続に類するものであった(前者は行政手続、後者は司法手続という相違はある)が、通常の破産整理手続と比べて、株主や大口預金者等の資産家の負担が大きかった。これは、SCAP側の当初の考え方に、資産再分配による民主勢力の育成、株式所有による企業間結合の切断、財閥支配からの銀行の解放など、戦後改革としての経済民主化を重視する傾向が強かったことを反映している。

また、法定順序により損失を負担してもなお整理しきれない場合、最終的に政府が補償することとされたのは、新勘定に所属する小口預金に旧勘定整理の負担が及ばないようにするため、預金保証に代わる制度として考案されたものである。こうした観点から、金融機関再建整備は、金融機関の経営危機に際して、少額預金者保護と金融システムの安定を図る方策という意味で、政策的背景と発想は異なるものの、その後の預金保険制度や、金融機関の破綻処理に通じる面もあるといえる24

なお、政府補償は、預金保証の代替とはいえ、公的資金の投入により、個別金融機関の損失を補填したかたちになっている。しかし、金融機関の損失は、もともと戦時中の国策に協力させられたことによるもので、その負担を国民全体が分担することは、ある程度やむを得ないという広範な認識があったため、当時においては、「金融機関優遇」といった批判は少なかった。

SCAPは、後述する包括的金融業法案による金融制度の全面的改編の前提として、金融機関再建整備の最終処理を急ぐよう指示した。1948年5月15日に至り、大蔵大臣は、各金融機関の最終処理方法書を3月31日付けで認可した。最終処理の結果をみると、全金融機関の確定損は440億円に上り、これに対する負担額の内訳は、①確定益79億円(合計の17.9%)、②積立金取崩し15億円(同3.4%)、③資本金切捨て20億円(同4.5%)、④整理債務(預金等)切捨て208億円(同47.3%)、⑤政府補償122億円(同27.7%)となっている。

このように、企業・金融機関の再建整備は、いわゆる「擬制資本」の切捨て、すなわち、敗戦の結果大きく減少した実物資本に対し、不釣り合いに膨張していた名目上の債権債務を、戦時補償の打切りを機に、末端の株主や預金者まで巻き込んで、一気に清算するという大事業であった。実施段階で様々な手直しを要したものの、その内容は概ね合理的に構築されており、最終的な成果も際立ったものであったと評価できる。


  1. 1946年3月末現在の全国銀行の総貸出残高の約75%は、軍需融資(指定融資、命令融資等を含む)と戦争保険融資によるものであった。
  2. 金融機関再建整備の基本構想段階の初期には、大蔵省内に、「後ろ向き」の債権債務を日本銀行に集中したうえで、具体的措置を講じるという案があった。これとは別に、「貯金保険金庫」を設立して、プール機関とするという案もあった。これは、成行き次第では、預金保険システムによるバックアップを行うという二段構えの構想であり、金融機関再建整備と預金保険制度との接点について、当局者が認識していたことの表れとみることもできる。